湯の山温泉でエナジーチャージしましょう~

御在所岳

伊勢志摩や鳥羽がある三重県。三重県には11の温泉地があります。鈴鹿国定公園の中に位置する御在所岳(ございしょだけ)は三重県と滋賀県の県境に位置する山で、日本二百名山・関西百名山また鈴鹿セブンマウンテン(※1)にも選ばれている山です。

そんな御在所岳の山麓東側に位置する温泉が、「湯の山温泉」です。山麓に位置するため、自然豊かで四季折々の景観が楽しめます。名古屋や大阪からのアクセスに恵まれている土地なので、歓楽街化しているのでは?!とご心配は無用です。歓楽街になってしまっている温泉が多い中で、「湯の山温泉」は歓楽街化されていない温泉としても、とても人気があります。そして、温泉地からは御所在ロープウェイが運行されているので、夏場は避暑地としても人気があり、豊かな自然を味わいながら温泉を楽しむことができます。

養老2年(718年)に発見された湯の山温泉は、まさに古湯です。別名「鹿の湯」と呼ばれる温泉伝説があります。

「鹿の湯」歴史ある温泉

それは、むかしむか~しのお話しです。

あるひとりの心やさしい木こりが、山に入ったところ・・山で傷ついている一頭の鹿を見つけました。木こりは傷ついた鹿を心配して、鹿の後をつけていきました。

すると、鹿は谷川に傷ついた足をつけました。そして鹿の様子は、なにやらとても気持ちよさそうにしているではありませんか。

ですが!その時!!木陰に鹿を狙う狩り人の姿が見えました。木こりは大きな声をあげて、この鹿を逃がしてあげました。

・・・それから数日たったある日のこと、木こりのもとに逃がしてあげた鹿が訪ねてきました。そして木こりに「危ないところをありがとうございました。おかげで助かりました。実は、あのくぼみのところには、ケガによく効くお湯が湧き出ているのですよ」と木こりに告げたのでした。

そうして、その話はまたたく間に遠い遠い村々や町にまで広がっていきました。

湯の山温泉の栄枯盛衰

仏僧・浄薫(じょうくん)が寝ている時、夢枕に立った薬師如来のお告げで開湯されたともされています。そして、大同2年(807)に御在所岳の山中に三岳寺(さんがくじ)が開かれたました。そこで、天台密教の祖でもある伝教大師最澄(806年に天台宗を開宗)がこの地で湯治をしたとの言い伝えが残っています。開湯伝説が物語るように霊泉として知られるようになり、三岳寺(※)の修行僧や御在所岳の山岳修験者が湯に浸かり、村人や里人も湯治に訪れたといいます。

※三岳寺は大同2年(807年)最澄によって開かれ、比叡山延暦寺を総本山とする天台宗山門派の寺院

永禄11年(1568)に、織田信長の伊勢侵攻によって平穏な日々は破られます。三岳寺の寺領を支配下に置こうと織田信長の命によって滝川一益の軍勢が押し寄せてきました。それを良しとしない三岳寺の僧侶たち(当時の三岳寺には数百もの僧兵がいた)は武器をとり、僧兵となって激しく抵抗します。しかし強大な滝川一益軍を前に屈して、寺は焼き討ちにあい約750年の伝統が途絶えました。そして温泉も廃泉となってしいます。

江戸時代に入ると、歴史あるかつての三岳寺のいで湯を復興させようという機運が高まりました。そして貞享3年(1668年)に、菰野藩の時の藩主の土方雄豊(ひじかた かつとよ)が幕府に願い出て、薬師堂を建立したことによって三岳寺も再建されることになりました。享保5年(1720年)には、伝教大師ゆかりの比叡山延暦寺の末寺として再興することになり、三岳寺は寺号山号が許可されることになりました。もとの寺地であった山奥よりも麓に建てられて、温泉街の中心となります。

泉質のよさ(放射能泉)と、三岳寺のご利益、そして近くを流れる三滝川渓谷の自然の美しさ、「湯の山大石」など渓流沿いの巨大で変わった形の岩に、三滝川の源流にもなっている名瀑「蒼滝」の壮麗さ、山に登れば遠く名古屋城の金鯱までも見通せたという景観のよさもあって、温泉は大いに栄えることになりました。宿の数は8軒を数えるほどにもなりました。特に尾張藩の城下町である名古屋から、多くの文人墨客がこの温泉を訪れたといいます。逸話も残っていて、『忠臣蔵』で有名な大石内蔵助が、主君の仇を討つために江戸へ下向する途中にこの温泉に逗留しました。その時に、自分の名前と同じ「湯の山大石」には日本一大きいと言われている御影石があり、大石倉之助は思わずたたずみ感心したと伝えられています。

この温泉の天明の大飢饉(1782~1788)によって人々の疲弊します。男女混浴の禁制などを含めた世情の不安と、寛政の改革(1787~1793)から来る幕府からの度重なる倹約令(ぜいたく禁止令)で取り締まりが厳しくなると、再び廃れ始めましたる。幕末の天宝14年(1843年)には湯宿も4軒になり、温泉宿の主人たちが連名で菰野藩に倹約令を見逃してくれと嘆願する文書までも提出しています。嘉永3年(1850年)には借金の申し入れまでもしましたが、幕末の安政5年(1858年)には、この地で経営している旅館はとうとう杉屋喜三郎の「杉屋」1軒だけになってしまいまhした。

こうして衰微の極に追い込まれた湯の山温泉ですが、「西南の役」がきっかけとなり復活することになります。明治10年(1878年)に九州で勃発した「西南戦争」ですが、西南戦争が終結した後、激しい戦闘で負傷した陸軍名古屋鎮台の傷病兵の臨時療養所が湯の山に設置されました。「杉屋」と三岳寺、廃業していた橘屋の旅館の合わせて3軒が宿舎に充てられました。鎮台本部のある名古屋から近いということと、多くの傷病兵を1度に収容するには、廃泉同様だった状況が陸軍にとっては都合が良かったということでしょう。

「療養の成績は良好なりしと、山紫水明の風光のよさは各地より来れる傷病将卒によりて宣伝せられし」(『菰野町史』)。このように残っているように、この地で療養した兵士たちの口コミで、温泉の素晴らしさと周囲の自然の美しさなどがどんどん広まっていきました。このことを受けて、地元の名士たちも動きます。名士たち温泉の人達の尽力によって、温泉の復興がなされるようになりました。菰野の市街地から温泉へ通じる道路が開発されて、新しい温泉宿も完成しました。これらが見事にあたり、明治15~16年ごろの夏の時期には宿泊宿に収容しきれないほどの温泉客が訪れるようになりました。

復興後には、開湯伝説にまつわる浄薫和尚をたたえた「湯本まつり」が始まります。そして、昭和2年(1927年)には東京帝国大学より田村剛博士を招いての、菰野周辺の自然の調査と保護の指針を仰ぐようになりました。戦後、「湯本まつり」は、織田信長軍と戦った三岳寺の僧兵の勇気と正義感をたたえ、僧兵の勇姿を今に伝える「僧兵まつり」としてより盛大に、今でも毎年10月に催されます。この「僧兵まつり」は600キロの大きな樽みこしに、松明(たいまつ)100本ほどを樽みこしにつけて練り歩きます。その姿は「火炎みこし」とも呼ばれ、松明の灯りで空は紅く染まります。松明をかつぐ男性衆も僧兵姿で、とても迫力のあるお祭りとして人気があります。昭和25年(1950年)には、愛知国体の登山競技が開催されて、この温泉地は全国にも知れ渡るようになりました。昭和34年(1959年)、御在所ロープウェイが開通したことで、一気に爆発的な人気となりました。ロープウェイで、楽々と御在所岳に登ると伊勢湾を一望することができ、知多半島に琵琶湖も見えます。そして天気の良い日には、世界遺産に登録された富士山までも遠く見ることが出来ます。

湯の山温泉は、残り1軒の温泉宿にまで落ち込んだこともありましたが、見事な復活を遂げて昭和55年5月には昭和天皇、皇后両陛下がご宿泊なされたこともございました。そして文化人にも愛され昭和の文豪、志賀直哉は湯の山温泉に滞在して短編『菰野』を執筆しました。もう二度と温泉を衰退させることがないようにと、自然と歴史が見事に調和している温泉地の雰囲気を守る努力は、21世紀の今も受け継がれています。そして、名古屋という近郊に位置していながらも、緑があふれる豊かな自然が残り山岳信仰の長くて古い歴史を受け継ぎながら中京と名古屋の奥座敷として、多くのお客さまを迎えています。

恋結び折鶴伝説

時代は江戸時代です。上方の大店には大事に育てられた、ひとり娘がいました。娘の名前は葵といいます。大店では使用人がおりますがその中の佐吉と娘の葵は恋に落ちました。そして二人は身分の違いから、この恋は結ばれぬ恋と思いつめ心中しようと湯の山へと入ってきたのでした。

そして、蒼滝(幅10メートル落差50メートル)にふたりで身を投げようとしましたが、その時に、ひとりの僧兵が現れました。僧兵は二人に「温泉にでもつかれば、気持ちも変わるかも知れんぞ」と励ましたのでした。

その言葉に気を取り直したふたりが湯に入りますと、なぜだかあれだけ思い詰めていた気持ちが、ほんのりほわ~んと解けていき、心中を思いとどまることになりました。

2人が翌日の朝、心中を思いとどまった御礼をしに、三岳寺を訪れ僧兵に会おうとしましたが僧兵の姿がみえません。せめてもの感謝の気持ちを伝えようとふたりは鶴を折りました。そしてその折った鶴をお寺へ奉納しました。するとその折鶴は連なってひらひらと高く空へと舞い上がり、空高く飛びたっていったのでした。

この不思議な出来事に、二人は明るい望みが抱くことができ希望を持ち、ふたりは上方へと戻る決心をして帰ったのです。

それから数年後、二人は願いが叶い結婚することが出来ました。そして幸せになったふたりは再び三岳寺を訪ねたのです。そして住職にあの僧兵のことを話しをします。すると住職は、もう何十年も僧兵はいないということを2人に伝えたのでした。

心中しようとした葵と佐吉を救った僧兵は、僧兵に姿を代えた仏様のお姿だったのでしょうか?!

そして、三岳寺では今でも、永遠の愛を願いそして、幸せに結ばれることを願う、恋人たちの姿があります。そして葵と佐吉に倣い、折鶴をお寺に奉納する恋人たちが訪れています。

大石恋石

まず、恋結び参道を歩いて三岳寺に行きます。三岳寺でこの「大石恋石」を手に入れます。

片思いの人ならば、2個の大石恋石の1個を縁結び地蔵の前に置きます。もう1個は自分で持ちます。

両想いの人ならば、2人で大石恋石の1個ずつをそれぞれ自分で持っておきます。

片思いの人は、相手を想うその気持ちが叶い、両想いの恋人同士はその恋がいつまでも続くといいます。

この「大石恋石」は、「湯の山温泉女将の会」がプロデユースしたものです。

みなさんの想いを込めて・・三岳寺に行きましょう~♪

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